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第1話 日本一恐ろしい愛犬

Autor: なつめ
last update Fecha de publicación: 2026-08-24 14:59:52

配膳係の靴が、畳には似合わなかった。都心の喧噪から切り離された老舗料亭の離れには、磨き込まれた檜と白檀の香りが薄く漂い、庭の鹿威しが一定の間隔で乾いた音を鳴らしている。燈城会の月例会に使われるその座敷へ入れる者は、直系幹部と厳選された店の人間だけだった。上座には四代目会長、絹笠凌臣が胡坐に近い姿勢で座り、指の間に挟んだ煙草から細い煙を立ち上らせている。仕立ての良い黒いスーツでも隠しようのない百キロの巨躯は、座っているだけで周囲の空間を狭く見せた。

凌臣の右後ろには、玻名城澪が立っていた。身長百七十三センチ、体重四十九キロという細い身体は、百九十三センチの凌臣のそばではなおさら華奢に映る。黒に青を一滴落としたような青墨色の髪は襟足を残して整えられ、頬から顎へ落ちる毛束が小さな卵形の輪郭を縁取っていた。雪のように白い肌、長い睫毛、伏せれば冷たい影を落とす灰紫の瞳は、裏社会の人間よりも画廊か高級店の広告に置かれる方が似合いそうだった。初めて見る者なら、恐ろしい組長が気に入って傍に置いている愛人だと考えるかもしれない。

だが、燈城会の人間で澪を見た目だけで判断する者はいない。凌臣の肩へ不用意に触れようとした男の指を、澪は笑いもせず二本折ったことがある。別の夜には、向かいのビルの暗がりに潜んでいた狙撃手を、照準器が光るより先に見つけた。組の金を抜いた古参幹部が複数の名義へ分散させた隠し口座も、澪は半日とかからず洗い出した。そのため彼を陰で愛犬と呼ぶ者は多くても、可愛いという意味で口にする者は一人もいなかった。

「西の倉庫については、来月から名義を変えます。現状のままでは金融機関側に余計な照会を掛けられる可能性があります」

澪が淡々と説明すると、円卓を囲む男たちは手元の資料へ視線を落とした。声は静かで、余計な抑揚がない。質問を受ければ必要なだけ答え、凌臣から指示が飛べば即座に「承知しました」と返す。四年間かけて燈城会の中枢へ入り込んだ男の姿に、迷いも隙も見えなかった。

襖が開き、先ほどと同じ配膳係が追加の酒と料理を載せた盆を持って入ってきた時も、澪は話を止めなかった。男は三十代半ばほどで、料亭の制服を正しく着ている。頭を下げる角度も、盆の持ち方も不自然ではない。それでも澪の灰紫の瞳は一度だけ男の足元へ落ち、そのまま袖口へ上がった。ほんの数秒だったため、会議へ集中していた者の大半は気づかなかった。

厨房と座敷を何往復もする配膳係なら、普通は水や油に強い滑り止め付きの靴を選ぶ。だが男が履いているのは、ドイツの軍用品メーカーが軍用ブーツを民生向けに調整したモデルだった。外見を黒く抑えていても、踵の処理と靴紐を通す金具で分かる。袖口から覗いた時計は、少なくとも配膳係の月給で気軽に買える品ではなく、しかも文字盤とブレスレットの年代が揃っていない。誰かから急に渡されたか、身分を偽るために雑に選んだ可能性が高かった。

男が凌臣の斜め後ろへ回り込んだ時、澪はさらに右手を見た。親指の付け根に、小さく硬化した皮膚がある。包丁を使う料理人の手でも、重い盆を持つ配膳係の手でも生じにくい位置だった。拳銃のグリップへ繰り返し親指を押しつける者に残る癖と一致する。澪は説明中の資料を閉じることなく、声の調子も変えなかった。

「以上が名義変更に伴う問題です。なお、取引先への通知は――」

男の肩が一度だけ沈んだ。懐へ手を入れるため、肘がわずかに外へ開く。澪は最後まで言葉を言い切らなかった。黒いスーツの裾が動いた時には、男の右手首を左手で掴み、身体を半歩だけ内側へ差し込んでいる。力比べをする必要はなく、肘と肩の角度を奪われた男は自分の勢いのまま卓上へ倒れ込み、料理の皿が激しく鳴った。

乾いた金属音が畳へ落ちた。黒い拳銃だった。周囲の幹部が立ち上がるより先に、澪は男の肩関節を極めたまま首筋を卓へ押しつけ、空いた右手で腰回りを探って予備の弾倉と小型ナイフを抜き取った。男は呻きながら身体を捻ったが、細い腕はほとんど動いていないように見えるのに関節だけが正確に固定され、逃げる方向そのものを奪われている。澪の呼吸も表情も、数秒前と変わらなかった。

凌臣は一歩も動いていなかった。煙草を口へ運び、灰を落とし、畳に転がった拳銃へ目だけを向ける。射線へ入っていたはずなのに避けもしなかったのは、澪が先に動くと分かっていたからなのか、それとも銃口程度では動じないだけなのか、周囲の者には判断がつかない。やがて凌臣はゆっくり煙を吐き、卓へ押さえつけられた男を見下ろした。

「澪」

「はい、組長」

「殺すな。吐かせる」

「承知しました」

澪は短く答え、男の手首を拘束用の結束具でまとめた。いつの間に用意したのかと若い組員が目を見張ったが、誰も口には出さない。凌臣の視線が落ちた拳銃を別の組員が回収し、座敷に転がった皿や酒器が片づけられていく。襲撃者が一人転がっているにもかかわらず、月例会は数分もすれば何事もなかったような秩序を取り戻していた。

「相変わらず、えげつねえ犬ですね」

向かいに座っていた直系組長の一人が笑った。冗談めかした声だったが、その目には澪への警戒がある。自分より遥かに細い男が、銃を抜こうとした人間を一瞬で制圧した直後なのだから当然だった。澪はその言葉へ反応せず、乱れた袖口だけを直して凌臣の右後ろへ戻ろうとした。

だが、凌臣の腕が先に伸びた。大きな手が澪の細い腰を掴み、そのまま片腕だけで自分の脇へ引き寄せる。百キロの男と四十九キロの男では抵抗する以前に重量差があり、澪の肩が凌臣の胸板へ軽く触れた。煙草と強い酒、さらにα特有の熱を含んだ匂いが近づいたが、澪は眉一つ動かさない。

「俺の犬だからな」

座敷に低い笑いが起こった。凌臣は機嫌が良い時ほど、こうして澪を所有物のように扱う。頭を撫でることもあれば、足元へ座らせることさえある。それを屈辱と受け取るのか、冗談として流すのかを周囲が窺っていることも、澪には分かっていた。だからこそ彼はいつもと同じ温度で口を開いた。

「僕を犬で紹介するのはおやめください、組長」

「事実だろ」

「組長補佐という肩書も一応ございますので、そちらをお使いいただけると助かります」

「可愛げねぇな」

「愛玩動物をお求めなら、専門店をご紹介します」

幾人かが吹き出し、凌臣は澪の腰を掴んだまま鼻で笑った。公の席であれば、澪の一人称は必ず「僕」だった。柔らかい敬語と無表情を崩さず、どれほど近い距離で凌臣に触れられても、組長補佐としての姿勢を保つ。その完成された振る舞いを見慣れた者ほど、彼の内側に別の声が存在するとは考えもしない。

料亭の責任者が青ざめて謝罪へ来ると、澪は男の採用記録と当日の入館経路だけを求めた。怒鳴る必要はなかった。声を荒らげるより、誰がいつ制服を渡し、どの扉を通し、どの防犯カメラが死角になったかを順に確認した方が早い。責任者が「三日前から臨時で入った者です」と答えた瞬間、澪はその言葉を頭の中の予定表と照合し、月例会の日程が外部へ漏れた時期を逆算した。偶然を装った襲撃ではない。少なくとも店の採用情報へ触れられる人間と、燈城会の予定を知る人間がどこかで繋がっている。澪はその結論まで口にはせず、「資料は今夜中に」とだけ告げた。

襲撃者は別室へ運ばれ、会議は予定より二十分遅れて終わった。帰りの車では凌臣が後部座席の中央に深く腰を沈め、澪はその隣で押収した拳銃の写真を確認していた。製造番号の一部が削られている。削り方は粗いが、金属表面の研磨方向に癖があり、以前にも似た処理を見た記憶があった。澪がスマートフォンの画面を拡大していると、横から大きな手が伸びて端末ごと視界を塞いだ。

「仕事は屋敷着いてからにしろ」

「早い方がいいでしょう。加工痕に見覚えがあります」

「お前、今日一日何食った」

質問の脈絡が変わり、澪は一度だけ瞬きをした。朝はコーヒーだけで、昼は移動中に栄養補助食品を口へ入れた。料亭では立ったまま会議へ付いていたため、料理には手をつけていない。答えなくても凌臣には顔を見れば分かったらしく、舌打ちが落ちた。

「帰ったら食え」

「この時間からですか」

「痩せすぎなんだよ。あと五キロ増やせ」

「昨日は三キロと仰ってませんでした?」

「じゃあ八キロだ」

「計算が乱暴すぎます」

凌臣は返事の代わりに煙草へ火をつけた。後部座席へ煙が広がる前に、澪は無言で窓を数センチだけ開ける。凌臣はそれを咎めず、むしろ灰が落ちないよう灰皿へ手を伸ばした。周囲から見れば支配する組長と従う愛人にしか見えない二人の間には、四年という時間で積み重なった細かな習慣が無数にあった。

本邸へ戻ると、斑鳩井朔を中心に襲撃者の尋問準備が始まっていた。澪は拳銃の情報と靴、時計、指の硬化について簡潔に報告し、男が店へ入り込んだ経路の洗い出しを指示する。若い組員の一人が「そこまで見てたんですか」と思わず漏らすと、澪は資料から目を上げもしなかった。見たのではなく、目に入ったものを忘れないだけだった。

時計が日付を越える頃、廊下を歩いていた澪は凌臣の部屋の前で足を止めた。呼び出しの連絡が来るより少し早い。それでも中へ入る時間は毎日ほとんど変わらない。襲撃があった日も、地方へ出た日も、発熱している日も、凌臣が酒で荒れている日も、この四年間その習慣だけは途切れなかった。

扉を二度叩くと、内側から「入れ」と声がする。澪はネクタイを僅かに緩めてから室内へ入り、背後で扉を閉じた。ベッド脇のテーブルにはウイスキーのボトルと灰皿があり、凌臣はシャツの第一ボタンを外したままソファへ座っている。昼間と同じ男なのに、二人きりになるだけで澪の肩からほんの僅かに力が抜けた。

「襲ってきた男、口割りました?」

「まだだ。朔に任せた」

「珍しいですね。自分でやらないんですか」

「今夜は別にやることがある」

凌臣の視線が澪へ止まり、その意味を読み違える余地はなかった。澪は小さく息を吐いたが、拒絶する言葉は口にしない。それもまた、四年間変わらない夜の一部だった。組員の誰も二人が同じ部屋へ消えることを気に留めず、朝になれば澪がいつも通り組長補佐として廊下を歩いていると知っている。

数時間後、澪は凌臣の寝室を出た。廊下には誰もいない。足音を殺す必要もないのに自然と静かに歩き、自室へ入ると、まず内鍵を掛けた。続けて壁際の収納を開き、室内に仕掛けられた盗聴検知器の数値を確認する。異常なし。そこで初めて、背筋を真っ直ぐ保っていた身体がわずかに崩れた。

鏡へ映った顔は、数分前まで凌臣の前にいた玻名城澪と同じだった。青墨色の髪も、灰紫の瞳も、細い顎も変わらない。それなのに、口元へ浮かんだうんざりした表情だけで別人に見える。澪はネクタイを乱暴に外し、ベッドへ放ると、誰も聞いていない部屋で低く呟いた。

「……今日も面倒くせえ」

声から従順さが消えていた。公の場で使う「僕」も、組長補佐の静かな敬語もない。肩を回しながらデスクへ向かい、左手首の腕時計を外す。裏蓋へ爪を掛けると、通常なら存在しない薄い継ぎ目が開き、極小の暗号通信端末が姿を現した。

端末を机上の遮蔽ケースへ置き、澪は右手ではなく左手で認証コードを入力した。途中から指を入れ替え、最後の二桁だけ右で押す。画面に生体認証の表示が現れ、灰紫の虹彩が読み取られる。数秒後、黒い画面へ白い文字が浮かんだ。

《認証完了》

続いて所属と階級が表示される。四年間、燈城会の誰一人として辿り着いていない名前だった。画面中央には、玻名城澪として生きる男とは決して結びつかない本来の所属と名が浮かんでいる。

《警察庁 警視 靫負玲》

玲は椅子へ深く座り直し、数時間前まで自分が押さえつけていた襲撃者の顔写真を転送した。報告用の暗号回線が開くまでの僅かな待ち時間に、凌臣から渡された煙草の匂いがまだシャツへ染みついていることへ気づく。眉を顰めて襟元を引いたが、着替える時間すら惜しく、そのまま端末へ視線を戻した。

日本最大の極道組織《燈城会》四代目会長の右腕であり、組長補佐であり、愛人であり、主人へ近づく者へ容赦なく牙を剥く日本一恐ろしい愛犬でもある。それらはすべて、国家が作り上げた偽名《玻名城澪》の顔だった。玲は通信開始の表示を確認すると、昼間とはまるで違う鋭い目で画面を見据えた。

「警視、靫負玲。定時報告を開始する」

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